2017年06月19日
「健剛なる芸術」の創造を唱え、大衆に訴える作品を描き続けた日本画家・川端龍子(1885-1966)。洋画から日本画への転向や院展脱退、絵画団体「青龍社」の樹立、規格外の大画面制作など、従来の枠組みを破るため常に挑戦を続けました。迫力に満ち、スケールの大きな龍子作品は、発表当時「昭和の狩野永徳」とも評されています。このたび、山種美術館では、龍子の没後50年を経たことを記念し、初期から晩年にかけての名だたる代表作を取り揃え、その画業を振り返る特別展を開催いたします。
1885(明治18)年、和歌山で生まれた龍子は上京した後、当初は洋画家を目指し文展に入選を果たしました。20代で新聞や雑誌の挿絵画家として職を得たことにより、龍子芸術の特徴の一つでもある、同時代の世相を俯瞰的に見るジャーナリズム性を習得します。やがて洋画修業のため渡米するものの、帰国後間もなく日本画家へと転向しました。
その後、独学で日本画を学んだ龍子は、30歳で再興院展に初入選、2年後には同人へ推挙されます。しかしながら、当時、繊細巧緻な画風が主流であった院展において、大胆な発想と筆致で構成された大画面の龍子の作品は「会場芸術」と批判されたことや院展内の軋轢もあり、脱退にいたります。そして、1929(昭和4)年、自ら主宰する「青龍社」を創立、戦時中も展覧会を開催するなど精力的な活動のなか、一貫して大衆のための作品を発表し続けました。
本展では、画業の初期にあたる洋画や挿絵画家期の資料、院展時代の作品、また青龍展第1回展に出品され記念碑的な《鳴門》(山種美術館)と《請雨曼荼羅》(大田区立龍子記念館)、さらに平安時代の装飾経をヒントに龍子の機知と技術が結集した《草の実》(大田区立龍子記念館)、ジャーナリズム精神の発露といえる《爆弾散華》(大田区立龍子記念館)、《金閣炎上》(東京国立近代美術館)、そして会場芸術の象徴ともいえる横幅7.2メートル超の大作《香炉峰》など一堂に展示します。また、『ホトトギス』同人でもあった龍子が1日1句作り続けた俳句に関わる作品や、小さな子どもや家族を慈しむ姿がうかがえる作品もあわせ、真摯で柔和な龍子の内面性が表れた初公開の作品資料類をご紹介します。
大正から昭和の日本画壇において既存の概念を打ち破ろうと強靭な意志を抱き、在野の雄として生涯描き続けた川端龍子の全貌を、12年ぶりとなるこの回顧展でご覧いただきます。